"Riding Alone for Thousands of Miles"

(邦題『単騎、千里を走る。』)

@Sony Picture Classic

日本映画のジャンルに、高倉健映画というものがあるような気がする。その中で高倉は同じ男 ー 家族の縁が薄く、孤独で寡黙だが熱い思いを秘めるー を演じ続けている。それがファンには、たまらない魅力なのだろう。

"Hero" などのヒット作で知られる中国の名匠張芸謀チャン・イーモウ)が、高倉の大ファンだった。79年に『君よ憤怒の河を渉れ』を観て以来憧れ、高倉のために5年がかりで脚本を書き下ろした。話としては、張監督が "Not One Less" などで繰り返し描いてきた、一途な思いや決意を貫く市井の人の物語。この作品では、日本の男の一徹な姿が、張監督の描く雄大で素朴な中国世界にとけ込んで、ひと味違う高倉健映画になっている。

北の漁村で一人暮らす高田(高倉)は、長年音信のなかった息子健一(中井貴一:声の出演)の重病を知り上京するが、健一は父の面会を拒否する。健一の妻(寺島しのぶ)は、高田に一本のテープを渡す。そのテープを観た高田は、民俗学者の息子が『三国志』を題材した仮面劇『千里走単騎』を録音する予定だったことを知り、息子のためにその劇を録音しようと決意する。
中国に単身渡った高田はさまざまな障害にぶつかり、多くの人の好意と助けを受けながら、息子を思う心の旅を続けていく…。

良い人ばかりの出来過ぎた設定が気になった。寡黙なはずの高田の語りが多く説明的だし、中盤から登場する少年の使い方に、子供で泣かせる計算も見える。しかし、作り過ぎの難を高倉の存在感が救っている。高倉の人徳なのか、俳優健さんの名演なのか、官吏に助けを求めるシーンでは、朴訥な男の必死な思いに圧倒された。この熱情と誠意には誰も抗しがたく、それが不変の高倉健映画を成立させているのだろう。

中国の景観も大きな見どころ。玉龍雪山や石林、雲南省麗江の古い町並みなど、鋭い色彩感覚で知られる張監督ならではの美しさだった。日本での撮影部分は、高倉健映画を多く撮って来た降旗康男監督が担当している。
上映時間:1時間48分。サンフランシスコはルミエール、バークレーはシャタック・シネマス、サンノゼサンタナローの各シアターで上映中。

"The Talented Mr. Ripley"

@Paramount Pictures

イタリアを舞台にした心理サスペンスの傑作

アラン・ドロンを世界的スターにした名作『太陽がいっぱい』(60年、ルネ・クレマン監督)のリメイク。前作のファンだったので、あまり期待しないで観に行ったのだが、前作とは別物の面白さがあって、続けて映画館に2回も行ったほど熱をあげた作品だ。英米の若手実力派俳優、マット・デイモンジュード・ロウグウィネス・パルトロウケイト・ブランシェットフィリップ・シーモア・ホフマンたちの競演にも熱が入り、見応え充分のサスペンス映画だ。

時代設定は前作と同じ50年代終り。美しいイタリアの古い町やローマ、サンレモなどを舞台に、おとなしい青年の異様な精神状態を追っていく犯罪心理もの。嘘でかためた主人公の屈折した心理をデイモンが好演している。
貧しいアメリカ青年トム・リプリー(デイモン)は、ヨットやジャズクラブで遊び回っている富豪のドラ息子ディッキー(ロウ)と出会い、彼の美しさ、富と自由の世界に激しく魅かれる。リプリーはディッキーに好かれたいと思い、彼を自分のものにしたいと思う。そして、その思いはさらに高じて、ついにディッキーになってしまうという話。
後半は、次から次と嘘をつき続ける「アリ地獄」にはまったリプリーの焦りと、嘘の皮がハラリハラリとはげていく恐ろしさがスリリングに描かれ、明るい前半と好対照をなす。

リプリーホモセクシュアルでありながら、名家の娘メレディス(ブランシェット)の気を引いたり、失踪したディッキーの恋人マージ(パルトロウ)が彼を疑うと、彼女を誘惑しようとする。リプリーは何者なのか。彼の実在は見えない。いや、彼自身にも見えないのだ。

彼は人の声色や筆跡をまねるのが上手く、同窓生のふりをしてディッキーに近づいた。彼はなぜそんなtalent(才能)を身につけたのか。自分が心底嫌いだったからではないか。だから、自分以外の何者かになりたいと思い、人の声色や筆跡を真似て、男にも女にもすり寄って生きて来た。そんな青年が、地中海の輝く太陽のような男ディッキーと出会った悲運。空っぽなリプリーが、ディッキーに成りすますことで自分を満たそうとしたのだが…。

エンディング、豪華客船の一室でたった一人になったリプリーの、空ろな姿が鏡に映って揺れる。彼の実在のなさを象徴する秀逸な演出だ。
原作は、1921年生まれのアメリカのサスペンス小説家バトリシア・ハイスミス。異様な精神状態の主人公を題材に、彼らの不安や追いつめられていく心理を描く犯罪小説で知られる。彼女はアル中で変人、人嫌いで知られ、多くの女性と関係を持ったが長続きせず、生涯をほとんどを異邦人としてヨーロッパで過ごし、晩年はスイスの山中で一人暮らしだった。

作家的成功とは裏腹に、あまり幸せとは言えない彼女の人生を思うと、ふとリプリーの自分嫌いと重なる。ハイスミスが精力的に仕事をした50ー60年代、同性愛者が自分をまるごと肯定し、愛せる時代ではなかったのだろう。「不安の詩人」と呼ばれ、ヨーロッパでは絶大な人気を得ながら、米国では暗い作風が嫌われ、評価が低かったことが、彼女の人嫌い、自分嫌いに拍車をかけたのではないか。リプリーハイスミスの分身のようにも思え、苦い感慨にとらわれる。

監督は『イングリッシュ・ぺイシェント』のアンソニー・ミンゲラ。前作では隠れていた主人公のセクシュアリティを正面から描き出して意欲的だ。暗い作品と敬遠せず、ジュード・ロウの美しさを見るだけでも充分価値アリ。が、それだけでは決して終わらない作品の奥行きに、引込まれることは確実だ。
邦題は『リプリー』、99年製作。上映時間:138分