『めぐりあう時間たち』("The Hours" 2002年、米国)


めぐりあう時間たち』写真クレジット:Miramax Films
本作について、高尚ぶっていて難解な映画、そんな印象を持つ人は多いように思う。たぶん、それは映画化が不可能と言われたマイケル・カニングハムの原作によるところも大きいのだろうが、主にはレズビアンを主人公にしているということが見えにくく作られているからだと思う。なぜそうなのかの理由は、カニングハムの文学的な趣向かも知れないが、それ以外にも理由はあるように思う。そのことは後で書こう。
たくさんの謎をちりばめながら、3人の女性にとって大切だったある一日が交互に描かれていく。
一人目はフェミニストとして知られた英国の作家ヴァージニア・ウルフニコール・キッドマン)で、1923年のある一日が描かれる。心を病んでいるらしい彼女は、転地療養のために夫と共にロンドン郊外で暮らしながら、小説『めぐりあう時間たち』のモチーフとなっている『ダロウェイ夫人』という小説を書いている。


めぐりあう時間たち』写真クレジット:Miramax Films
ある女性の一日を描いたこの小説には、若いダロウェイ夫人が快活なサリーに強く惹かれていたエピソードがでてくるが、本作中のヴァージニアは小説の書き出しを思いつきペンを走らせている。小説『ダロウェイ夫人』の登場人物と事件が、3人の女性の物語に散らばって独自な展開をし、この映画の謎を解く大きなカギとなっていく。共通項は花であったり、口づけであったり、自殺者であったり、という具合だ。

二人目の女性は小説『ダロウェイ夫人』を読んでいる妊娠中の主婦ローラ(ジュリアン・ムーア)。舞台は1951年のロサンゼルス、ローラには幼い息子リッチがいる。この日は夫の誕生日で、彼女はリッチと共にケーキを焼いたりしているが、明らかに自分の暮らしに嘘を感じて苦しんでいる。同じ日、入院するという隣人キティの訪問を受け、動揺する彼女に口づけをしてしまう。偽りのない自分を知ったローラは、ある決心をする。

最後の一人は、『ダロウェイ夫人』と同じ名前のクラリッサ(メリル・ストリープ)という編集者で、ダロウェイ夫人同様に自宅で華やかなパーティを催すのが好きな知的ニューヨーカーだ。時は現代、広く快適なNYのアパートで女のパートナー、サリー(『ダロウェイ夫人』の初恋の女性と同名)と暮らすクラリッサの一日が描かれる。

めぐりあう時間たち』写真クレジット:Miramax Films
クラリッサはその日、若い頃に恋した男性リチャード(エド・ハリス)のためにパーティを準備している。小説家で詩人でもある彼が権威ある文学賞を受賞した祝いの宴なのだが、リチャードはHIV感染者で長い闘病に疲れ、パーティには出ないと言ってクラリッサを困らせている。

『ダロウェイ夫人』によって繋がる3人は、明らかに同性に対する恋愛感情を持つ女性たちで、ローラは明らかにそのために苦しんでいる。ヴァージニアの自殺の理由は分からないが、神経質で心の病いを抱えた彼女にとって、夫がありながら同性への恋愛感情を持つことが重かったことは想像に難くない。20世紀初頭に生きたヴァージニアは死を選び、1951年のローラは自殺未遂の末に子を置いて家を出る。

現代のクラリッサは、時代の限界の中で悲劇的な道を選んだ他の二人と比べて、恵まれている。彼女には人工授精で生んだ娘までいて、子を置いて家を出ざるを得なかったローラとは隔世の感。クラリッサの苦悩は現代のキャリア女性に共通するもののようにも見える。

恵まれた環境で自分なりの生き方を選択出来た彼女だが、ゲイであるリチャードとの過去の思い出にこだわり続けている。彼女が編集者であることを考え合わせると、優れた文学者であるリチャードへの思いは、文学を最高のものとする彼女の価値観に根ざしているようにも思える。彼女は本当は作家になりたかったのかもしれず、だからこそリチャードとの過去を手放すことが出来ず、今目の前にある幸福が見えないのだ。

エンディングでリチャードの母がローラだったことが判明する。クラリッサの家に現れた年老いたローラは、「自分は死よりも生きることを選んだ。子供を捨てる以外に方法が無かった。」という意味のことを語り、クラリッサはハッとする。ベッドルームに駆け込んで、サリーに口づけをするクラリッサ。彼女は、初めて自分の持つ幸せを実感するのだ。

長い友人関係を続けたリチャードとクラリッサの関係をリチャードの側からみると、たぶんクラリッサは彼の母ローラの身代わり、という気がしてくる。小説『ダロウェイ夫人』を愛読した母、クラリッサをダロウェイ夫人という愛称で呼んだリチャードの気持ちは、自分を捨てた母への思いだったのではないか。

彼はクラリッサの目前で窓から身投げをするのだが、その直前に「僕はずっと君のために生きてきた」と謎の言葉を告げる。「君」を「母」と置き換えるとこの言葉の意味に合点がいくのだ。彼は美しい母を生涯愛し求め続けたが、母はその子を捨てることでしか自分になることが出来なかったのだ。ホモフォビックな社会で生きた母と息子の悲劇がここで印象的に浮かび上がってくる。

レズビアンを基点として細見していくと、本作は難解な映画ではなく、むしろ筋が通って明快ですらある。だが本作には、ホモフォビックな時代を生きた女性を描く社会性の強い映画という印象はなく、文学的な香りが漂う映画作品であることに変わりはない。

前述した主人公のレズビアン性が見えにくいという点については、映画の興行的成功のためにあえて隠したということも充分考えられるが、私はヴァージニアやローラが生きた時代のレズビアンたちは、たぶん外側から見るとこんな風に謎めいていたのではないか、と思えるのだ。

どこか鬱っぽく、家出をしたり、自殺を図ったりする女性たちがきっとたくさんいたはずで、そんな女性たちの中にはレズビアンもたくさんいたのではないか。彼女たちは周囲の人間には、怒りっぽかったり、いつも悲しそうだったり、隠し事をしているようにしか見えなかった。誰も彼女たちが何を苦しんでいるのか分からなかったし、想像もつかなかった、そんな時代を生きた女性たちの姿がこの映画を通して見えてくるような気がするのだ。

3つの時代と3人の女性の物語が、フィリップ・グラスの音楽によって一つの流れの中に渾然としていく演出は、まるで大輪の花が少しづつ開いていくようなサスペンスと美しさを醸し出す。苦悩するレズビアンたちを、自由を求めて自分らしく生きようとした人間として描いた点が特に秀でていると思った。主演の三女優たちの演技もそれぞれに素晴らしく、何度観ても、何か発見のある映画作品としてぜひお薦めしたい。

めぐりあう時間たち』日本語公式サイト:http://www.jikantachi.com/home.php