『Zero Dark Thirty』(邦題『ゼロ・ダーク・サーティ』)


ゼロ・ダーク・サーティ』写真クレジット:Colombia Pictures
この映画を面白く観るためには、私たちがある「物語」を信じる方が良いのだろう。
「01年に起きた9/11事件の主犯者はウサーマ・ビン・ラーディンである。彼は事件後、タリバン政権の庇護を受けてアフガニスタンの山岳地帯に隠れていた。しかし、彼の居所は掴めず10年の年が過ぎ、11年になってCIAはようやく彼の隠れ家をアフガニスタンで発見。米軍の特殊部隊が深夜に彼を急襲し、射殺。遺体は水葬された。」
本作はこの「物語」を下地に、政府関係者、米軍、CIAへのさらなるリサーチを重ねて作られたという。主人公は優秀なCIAの分析官マヤ(ジェシカ・チャステイン)。9/11後ビン・ラーディン捜索の最前線になっていたパキスタンのCIA支局に転任してくるが、そこは連行されてきたアルカイダ関係者への拷問が日常化している世界だった。
初めは拷問に目を反らすマヤだが、ビン・ラーディンの発見という国家の至上命令を背負って「自白を得るためには手段を選ばず」という冷徹無比な分析官へと変貌していく。そして10年、新たな手がかりを掴めないまま苦しい時を過ごした彼女は、ついにビン・ラーディンの隠れ家を突き止める。

スパイ・サスペンス映画としては極上の出来映えで、主要な映画賞にいくつもノミネートされている。監督は『ハート・ロッカー』で女性初のアカデミー監督賞を受賞したキャスリン・ビグロー、脚本も前作と同じマーク・ボールが書いている。しかし「12年のベストフィルム」だとお気楽に言っていられない居心地の悪い映画でもある。

はたしてアフガニスタンで殺された人物は本当にビン・ラーディンだったのか? なぜ彼を捕えず殺害し、イスラム教式に土葬ではなく水葬してしまったのか? そもそもビン・ラーディンは9/11の主犯だったのか?

「彼は9/11以前に死んでいたが、米国政府はそれを隠して彼を主犯とし、殺害の報道は政府によって最も都合の良い時期にする、という計画があった」という元政府高官もいる。
ビン・ラーディンに関する報道のどこからどこまでが事実なのか。私たちが知っている「物語」には疑問が多過ぎる。

しかし本作は「物語」を下地に、ビン・ラーディン捜索のために世界中で執拗な諜報活動をし、他国の主権侵害にあたる軍事行動をした経緯を緊迫したアクション・スリラーの手法で描いていく。「物語」を信じている人なら本作が「真実」だったと誤解しかねない良くできた映画である。しかも、ヒーローは女、監督も女という点で注目が集まっているが、本作を見る限り「女」という記号の持つ意味は皆無に等しい。

隠れ家急襲を前に小柄なマヤが屈強な特殊部隊の隊員たちに「彼を私のために殺せ」と檄を飛ばす。国家の命であるビン・ラーディン殺害が自己の目的と同一化したマヤは、これまで観たCIA職員の中では性別に関係なく不屈の意思という点で最強だ。

作中、面白いと思ったのはマヤの私生活が全然描かれなかったことと、彼女が女として差別的な扱いを受けるという描写が無かったことだった。男の組織で働く女を描く場合、必ず描かれる男達の女への無視や揶揄、嫉妬だが、なぜ本作にはそれが欠如していたのか。

CIAが性差別をしない組織かどうかは知らないが、ビグロー監督は結果を出すことのみが求められる諜報の世界で、差別的な扱いすらも寄せ付けないマヤの執念をスッキリと描き出したかったのではないだろうか。それはとりもなおさず、男中心の映画界で生き抜いてきたビグロー監督自身の姿なのかもしれない。だからこそなのだろう、マヤを見つめる監督の視線はマヤ同様にクールで無表情である。

「女の監督がなぜ戦争アクションを撮るのか?」という質問にウンザリしているというビグローの気持ちは想像に堅くない。彼女は女という枠から出てしまっているのだ。

本作を観て感じたことは「女の時代」の終焉。そんな言葉を使う必要すらなくなった「平等」の姿である。女たちは男たちと同様に任務遂行のために拷問をし、上司を脅し、軍人に殺害命令を下せるほど「平等」になったのである。平等=男化ではないと言い続けてきたはずだったのに。

エンディングでマヤは燃え尽きたようになって一滴の涙を流す。あの涙は私の涙だ。長い道のりを経て、女がたどり着いた「平等」の一つの到達点がこんな姿なら、泣くしかないではないか。

上映時間:2時間38分。サンフランシスコではシネコン等で上映中。
『Zero Dark Thirty』英語公式サイト:http://www.zerodarkthirty-movie.com/site/
ゼロ・ダーク・サーティ』日本語公式サイト:http://zdt.gaga.ne.jp/