"Like Someone in Love(邦題『ライク・サムワン・イン・ラブ』)


ライク・サムワン・イン・ラブ』写真クレジット:IFC Films
トスカーナの贋作』(英題 "Certified Copy" http://d.hatena.ne.jp/doiyumifilm/20110326) で虚構のもつ力について考えさせてくれたイランの巨匠イランのアッバス・キアロスタミ監督の最新作。今回は日本が舞台、 出演者も撮影監督、美術、サウンドもすべて日本人である。
にも関わらず、日本映画を見ている気がまったくしない。反面、もし本作が日本語でなければ、きっと作り手の意図を自分なりにたぐり寄せることができたハズ、という奇妙で面白い映画体験をした。
東京のデートクラブで働く女子大生の明子(高梨臨)は、ある晩ボスに言われて元大学教授のタカシ(奥野匡)の家に行く。明子が亡妻に似ていることから彼女を呼んだタカシは、会話をしただけで明子を家に泊め、翌朝彼女を学校まで送っていく。

すると、彼女の行動を疑う嫉妬深い恋人のノリアキ(加瀬亮)が現れ、タカシを祖父と勘違い。明子らはノリアキの誤解を訂正しないまま会話を続けていく。

筋書きらしいものはなく、この3人に起きた一日半の出来ごとを、キアロスタミ独特の長いワンショットで繋げながら描いて行く。
冒頭で明子がノリアキと携帯で会話するショットの長さ、永遠に続くかに感じられる明子の無意味な言葉の断片を聞きながら、まず足をすくわれた。

キアロスタミ作品における台詞の役割はあまり大きくない。きちんとすべての言葉を理解したからと言って、謎が解けるという台詞ではないのだ。

登場人物たちは意味があるとは思えない長い会話を繰り返す。観る者はその内容よりも、人物の表情や視線の動き、それらに含まれるさまざまな感情や意図を読み取ることに関心が向かい、一見何も起きていないシーンから目が離せなくる…というのがいつものキアロスタミ体験だ。

ところが本作では日本語の語感の濃さに掴まって、あたかも日本のTVドラマを観ているような錯覚を持ってしまった。そして、動くはずの「物語」が止まっていることに苛立ちに、シーン本来の意図を追い切れなくなっていた。
それはシンフォニーを聞いていて、ある楽器の音だけが強くはっきりと耳に届いて、楽曲全体が聞き取れないような感じに似ている。
本作がフランス語や韓国語であったらなら、きっとこんな穴には落ちなかっただろう。

2度目を音無しで英語字幕で観たら正解だった。誰に対しても自分を明かさない明子という若い女の嘘を生きる破綻。そんな実体を持たない若い女に対して、妻への追憶を重ねる老人と独占欲を被せていく若者。3人が繰り広げる虚構と幻想の調べが聞こえてきたのだ。

監督は日本に行った際に、東京で若い女を見かけた時の体験を本作の元にしたという。前作をさらに深めた感のある本作だが、前作主演のビノシュのしたたかな演技と比して高梨と奥野のぎこちない演技が災したのか、映画作品として前作には及ばなかったのは残念だった。

上映時間:1時間49分。サンフランシスコはオペラ・プラザ・シネマで上映中。
"Like Someone in Love" 英語公式サイト:http://www.ifcfilms.com/uncategorized/like-someone-in-love
ライク・サムワン・イン・ラブ』日本語公式サイト:http://www.likesomeoneinlove.jp/