The King of Masks

「泣く男」アジアの男の忘れ難い美しさ

この2月、パシフィック・フィルム・アーカイブで「処刑の島」(篠田正浩監督、1966年)の上映と監督自身の講演会があった。
日本の右翼思想と戦後民主主義のあり方を重く考え続けてきた映画作家としての姿勢。強権的なアメリカ国家/文明への骨のある批評。久しぶりに知的興奮を感じる素晴しい一夜であったが、その中で彼が一度だけ声をつまらせ泣き崩れるという一瞬があった。彼の作品に多くの音楽を提供してきた生涯の友、作曲家で故人となった武満徹氏にふれた時だ。それは不思議なほど懐かしい光景で、忘れかけていた日本的な情感世界を思い出させた。

今年のアカデミーの受賞式で主演女優賞を獲得したG. パルトロウが泣いたのに対し、「子供っぽい」という批判があったが、この国で「泣く」ことは弱さや幼稚さの表明となるようだ。それに比べると日本人はなんと「泣く」ことに寛容だろうか。広辞苑を引くと、「涙雨」「涙川」「涙曇り」など「涙」を冠する叙情的な言葉が35種。私たちにとって「泣く」ことは、溢れる感情や深い思いなどの表現でこそあれ、弱さの表明ではない。もし情感に水位があるとするなら、私たちのそれはいつも高い水位を保っているような気がする。

さて、今回紹介する「The King of Masks」もまさにそんなアジア的情感水位の高い一作。2年前のサンフランシスコ映画祭で最優秀映画賞を獲得した香港映画で、主演は中国の名優、朱旭(ジュー・シュー)。こちらでも数年前に放映されたNHKの連続ドラマ「大地の子」で、主人公陸一心の優しい中国人養父役で私たちを泣かせた、あの俳優だ。

1930年代の四川省。一瞬にして面を次から次へと替える見事な伝統芸を披露する大道芸人ワン(朱旭)は、若い時に息子を失い、妻にも逃げられて一匹のサルと静かに暮していた。年老いた彼の悩みは、後継者がいないこと。ある時、彼は思い立って人買い市(すごい!)へ行き、7歳の少年ドギー(ジョー・レンイン、天才子役!)を買い上げ、わが子のように可愛がるようになる。ところが、実はこの子が女の子だと分かり、ワンは幸福の絶頂から失意と困惑の底ヘ。

物語は、孤独なワンとドギーが京劇の人気女役スター、マスター・リャン(ジャオ・ジーガン)に助けられながら、大きな困難を乗り越え、魂を寄せて行く過程をドラマチックな展開で見せてゆく。老人、孤児、サルという設定でも分かるように、悲しげな音楽を合図に泣かせどころがたっぷり用意された映画作りは情感水位過剰ぎみ。さすがの私もやや辟易としたが、泣くのも娯楽と思えば立派な娯楽作品。朱旭が体現した孤独な老芸人の哀しみと優しさには、アジアの男の忘れ難い美しさがあり、その姿は冒頭で紹介した篠田氏を思い起こさせるものがあった。
監督/製作は87年の東京映画祭でグランプリを獲得した「古井戸」の監督、ウー・ティェンミン。上映時間:101分、英語字幕付き。