"La Ceremonie" (1995年)


写真クレジット:New Yorker Films

大好きなイザベル・ユペールが出ていたので、下調べもしないで観たら、フランス風スリラーの上質な作品だった。

犯罪スリラーの枠に、裕福な一家に憎悪を抱く希望のない無産階級の女たちを対峙させて、実にフランス的。女たちの劣等感や嫉みが、ヒタヒタと心の闇を広げていく描写に手先まで冷えていくような怖さがあった。

今回も主人公は二人の女。おとなしいメイドのソフィー(サンドリーヌ・ボネール)と外向的な郵便局員のジャンヌ(ユペール)。二人は秘密を持っている。ソフィーは文盲、ジャンヌは子殺しの疑いが持たれていた。物語は、ソフィーが裕福なロウフィールド館のメイドとなるところからスタートする。 

館の女主人であるカトリーヌ(ジャクリーヌ・ビセット)は、几帳面に働くソフィーに満足している物わかりの良い上品なマダム。聡明な娘ミリンダもソフィーに優しくしてくれるが、文盲が露見することを怖れるソフィーの心と口は堅く閉されている。もちろん、カトリーヌたちはそんなソフィーの孤独にはまったく無関心だ。そこにジャンヌが登場する。

カトリーヌの夫は、ジャンヌが訴追を逃れた後も彼女の犯行を信じている。それを知っているジャンヌは一家を憎み、館宛の郵便を平然と開封して憂さ晴らしをしている。どこか壊れた感じのするジャンヌが、脅えるソフィーと出会ったことで、負と負が重なってダークな力を持ちはじめる。

休日を共に過ごす二人が妖しい。キノコ狩りに出かける時のルンルンとした少女っぽさから一転。カトリーヌたちへの悪意をあらわにするジャンヌと、文盲以外にも秘密のあったソフィーは、憎しみと秘密をわかち合うことで親しさを深める。無邪気にベッドで抱き合う二人に漂うエロチシズムと犯罪の黒い影…。

同じ日、ミリンダのフィアンセである音楽家を招き、華やかなムードにわき返るロウフィールド館。ブルジョワである彼らには、休日にパンとキノコのソテーだけで過ごすジャンヌとソフィーの貧しさや心の闇など想像すらできない。その落差を描くことに、どうやらこのスリラーの主眼があるようだ。

ブルジョワジー(有産階級)という言葉は、フランス映画を観ていると良く出てくる。土地や資本を持ち、働かなくても生活に困ることがない人々。パリに豪奢なアパルトマン、郊外に小さな城や館を持ち、高級ブランド品を日用品として何世代も使いこなしてきた階層というイメージか。ロウフィールド館に住む一家がまさそれだ。

フランス映画には、この有産階級に対して無産階級の人々を鮮やかに対照させ、人間対立の根に階級的落差を置く形式の映画が多くある。この映画の監督クロード・シャブロルヒッチコックに深く傾倒した人で、スリラーの名手として知られているが、その作中で階級の違う主人公をよく登場させ、その対立や無関心などを何度も描いてきている。

88年の『主婦マリーがしたこと』では、ナチ傀儡ヴィシー政権時に、貧しさから抜け出すために堕胎を施術しギロチン刑になった女性を乾いたタッチで描いている。ちなみに彼は、60年代にパリで生まれた映画運動ヌーベルバーグを代表する映画監督でもある。

この映画の邦題は『沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇』。しっかりネタバレしているので、最後に紹介した。ミステリーの女王ルース・レンデルの小説『ロウフィールド館の惨劇』からシャブロルが脚本を書いており、題名通り最後は大変なことになる。

小柄なジャンヌが大きなショットガンを抱えて、快感にほくそ笑みながら「さあ、行くよ!」とかけ声をかけるシーンのおぞましさ。ここで観客はこの女が自分の娘を殺していることを確信する。

貧しい女への同情など拒絶するジャンヌの心根の腐り具合を、ユペールが怪演。無産者=被害者という単純な図式を越えて、なおかつ階級社会の実際を怜悧に見つめるシャブロル監督の視線が冴えわたる一作だ。

ジャンヌ役のユペールとソフィー役のボネールは、この役でヴェネチア国際映画祭の女優賞を取っている。
上映時間:111 分