"Mother Teresa"


"Mother Teresa" 写真クレジット:Petrie Productions

マザー・テレサの名前は知っていても、あえて知ろうとしなかったように思う。キリスト教がどうも良く分からないということもあったが、天使、聖女と呼ばれた彼女があまりに立派すぎて近づき難かったのだ。
そんな彼女に強く関心を持ったのは、去年公開された米国のドキュメンタリー映画 "The Price of Sugar"を観てから。

この映画はドミニカ共和国の劣悪なるサトウキビ農園で、奴隷同然の扱いを受けて生涯を終えていくハイチ人労働者を助けるある神父の姿を描いた作品。彼が飢えた子供に食事を与え、労働者のストライキを支援する精力的な姿を追っている。

彼は18才でマザー・テレサと出会い、彼女の元で奉仕の心を学んだ人。死をも怖れぬ強靭な精神力と疲れを知らぬ行動力に心をうたれ、彼の師であるマザー・テレサの教えとはどんなものなのかを、強く知りたいと思った。

"Mother Teresa"(86年。邦題『マザー・テレサ、母なることの由来』)はドキュメンタリー形式で、彼女が信じたキリストの教えとその実践を誰にでも分かるように描いた平明な映画作品である。

1910年に裕福なアルバニア人家庭で生まれた彼女が、18才で修道会に入り、38才で神の啓示を受けた経緯。その後、神の愛を路上で死にいく人々に分け与えようと始めたカルカッタの「神の愛の宣教者会」の活動や、グアテマラなど世界各地で活動する彼女の姿を5年間にわたって追いかけている。

ともかくも、彼女の強い信仰心と行動力に驚かされ、プリミティブな宣教者会の運営方法に強く感銘を受けた。

ある男性が「資金を集めて送ります」と言うと、彼女は「宣教者会の名前を使って資金集めをしないで欲しい。あなたが直接できることだけをしてください」と言い、組織的な資金集めと間接的奉仕活動を断わるのである。そこには、一人一人の人間が自分の労働と心で神の愛を実践することを第一義とした彼女の教えが強く反映されている。

新年早々、何でマザー・テレサなのかを白状すれば、年末年始に日本にいる母の介護をして、かなり参って帰って来たからだ。体力的限界もあったが、認知症による被害妄想からくる暴言や罵倒に、寛容になれない自分と向き合い続ける体たらくだった。
どうすれば母をありのままに愛せるのか、この映画を観ながら考え続けたことでもある。修道女のように無償の愛で母に尽くしたいなどと思っている訳ではない。母に対して心が閉じていくのはなぜか。厳しい問いが自分にあった。

この映画の中でマザー・テレサは、「大切なのは何をするかやその大きさではなく、その行動にどれだけ愛を込めるかだ」と語る。彼女は宣教者会が大きくなっても、自分で病んだ人を抱き、水を汲み、掃除をし続けていた。そんな彼女を見ていると、謙虚に奉仕に励む一人の修道女という印象が強く、偉大なる聖女という遠い存在には見えない。黙々と自分にできることをし、その行動に愛を込める。これなら私にもできるかもしれない、そう思わせてくれるものがあった。

私はまだまだ自分にかまけ、母の介護もまともにできない人間だ。神という個を越えた偉大なる存在に自己のすべてを委ね、その教えに従うなどという勇気もない。だが、この映画を観て、自己を捨てることで広がる可能性というものがある、ということを知った気がする。

快適や便利、好都合という言葉は修道女の活動の中にはない。最も貧しい人々に奉仕する彼女たちの暮らしは質素を極め、見返りを求めない無償の愛の実践を迫る厳しさも感じられる。しかし、彼女たちの姿が禁欲的には映らず、自由で快活にすら見えるのだ。

あの明るさは何なんだろう。最も不自由な環境の中でこそ、心の自由が得られるのだろうか。不思議な思いで画面を見つめ、気が付くと涙が出ていた。マザー・テレサの愛に触れて、私の心も開いたのかもしれない。離れている母へ私の思いが伝わるだろうか。

ナレーションは、映画『ガンジー』の監督リチャード・アッテンボロー。製作・監督はアンとジャネット・ペトリの姉妹。上映時間:1時間22分。

"Mother Teresa"英語公式サイト:http://www.motherteresafilm.com/?gclid=CKPZnNGpgJECFSiaYAodIFirBA

"The Price of Sugar"英語公式サイト:http://www.thepriceofsugar.com/about.shtml