"The Matrix"(99年、邦題『マトリックス』)


マトリックス』写真クレジット:Warner Bros.
過去10年間を振り返ってこれほど興奮した映画はない。自分の世界観に根本的なインパクトを与えたという意味では最強の映画だと思う。どんなSFアクション映画も、本作と比べると色あせて見えて困るほど。それがSFアクション大作 "The Matrix" だ。
公開当時は、ブレット・タイムという最新の特撮技術や宗教やコンピュータの概念などがしっかり物語に組み込まれた内容だったので、女友だちにこの映画を奨めると「あのスゴくオタクっぽい映画のこと?」という返事が返ってきたものだ。食わず嫌いで敬遠していた人も多いだろう。

久しぶりに見直したら、今公開中の "Star Trek"と比べると破壊/戦闘シーンも地味目だし、オタク度も低く随分観やすかった。10年も経つと公開時の映像的な先鋭性が薄れて、その分この映画のテーマに近づきやすいのではないだろうか。テーマ? そう、人はいかにして悟りにいたるか、というテーマだ。

"The Matrix" 写真クレジット:Warner Bros.
しかも、この映画の極上の面白さは、その深淵なるテーマを、飛び切りクールで洗練されたハイテクSFアクション映画という枠組みで見せ切ってしまったこと。世界中で大ヒットしたのも頷ける。

物語は謎だらけで始まる。全人類は機械の奴隷として小さなサヤの中で眠っており、コンピュータによって書かれた情報が現実であると信じたまま生涯を終える。その世界(マトリックス)の中で生まれた主人公ネオ(キアヌ・リーブス)は、何かがおかしいと気づいていた。

そんな彼にコンタクトを取って来た謎の男モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)。ネオは何がなんだか判らないまま、モーフィアスの率いる集団に導かれる。そこで、モーフィアスはネオこそが機械に繋がれた人類を救う救世主であると彼に告げるのだった。

マトリックスから救出されたネオはモーフィアスから訓練を受け、「マインドを解放せよ」と諭される。本作で使われるマインドの意味は深長で、思い込みと訳しても良いだろう。人間はマインドを通して自分の現実を作り出し、それを真実だと思い込む。そこにマトリックスの付け入る隙があった。コンピュータで仮想現実を作り、人間の脳(マインド)に情報を送れば簡単に支配できる、という訳だ。

マトリックス内で吸う空気や五感で感じるすべての感覚が実はコンピュータから送られる信号に過ぎない。モーフィアスは仮想現実であるという認識を持てば、物理的制約からも自由になり、空を飛ぶことも可能だという。そして、彼は訓練ブログラム内で飛んでみせる。「オオー」と声を出して驚くネオ。空を飛べないという思い込みが人を飛べなくさせている、というラディカルな指摘だ。この辺りから話はいよいよ面白くなり、果たしてネオは救世主なのか、という後半の興味へと展開していく。

ところで、私たちの回りにもマトリックスはないか。最悪の不況だ、新型インフルエンザの危機だなどというメディアの騒ぎに簡単に影響を受ける日々。訳もなく不安感を持たされる。仏教では人は仮の世に生を受け、苦を体験して、極楽浄土を求める、という。今を生きる私たちの苦の多くは、テレビや商業メディアなどから流れ込む過剰な情報から生み出されてはいないか。私たちのマインドも自由とは言い難い。

さて、ネオはマトリックス内で次第に超人的な力を獲得し、ついにはマトリックスの正体を視る。このシーンは何度見ても鳥肌が立つ。マインドの解放という抽象的な概念を見事に映像化した驚異的な場面だ。ネオを信じ「道を知ることと、歩くことは別なのだ」と言ったモーフィアスの言葉が最後になって合点がいく。

ヘヴィメタルサウンドに合わせて激しいアクション場面もタップリ。中国武術や日本のアニメなどからのパクリをちりばめた一大娯楽映画でもあるのだが、基本的には「この世は仮の世」を教える導師に導かれ、若者が悟りを開くまでの物語というのが私の解釈だ。ネオが救世主であるかどうかよりも、彼がいかに自由を獲得するかのプロセスが面白かった。

救世主の再来という内容なので、キリスト教的にこの映画を解釈する人も多く、モーフィアスは「信心」、ネオを愛するトリニティは「愛」を表し、救世主であるネオを助けるという見方もあって、解釈も百花撩乱で楽しいことこの上ない。脚本/監督はウォシャウスキー兄弟。この後 "The Matrix Reloaded" "The Matrix Revolutions"(共に03年)など続編が作られるが、難解度が深まって本作のシンプルさと明晰さを越えることは無かった。

本作は緻密に組み立てられた作品なので観るたびに発見がある。繰り返し鑑賞する見方をお薦めしたい。

上映時間:2時間16分