"À bout de souffle” (59年。邦題『勝手にしやがれ』)


"Breathless" DVD 写真クレジット:Fox Lorber
映画の一場面なのに、現実よりも鮮烈な記憶として残っているイメージがある。『勝手にしやがれ』(英題 "Breathless")に出てくるパリの夕闇もその一つ。シャンゼリゼの街灯にフッと明かりが灯る一瞬の息をのむ美しさ。快活な昼の時間が終わり、暗い夜のとばりが忍び寄る。なぜか「ああ、もう終わりだ」という感覚にとらわれる…。
中学生の頃に初めて観て以来何度も観ているが、いつ観ても魅了されてきた。背広にソフト帽を斜めに被ったジャン・ポール・ベルモンドと、Tシャツとジーンズ姿で新聞を売るジーン・セバーグが並んで歩くシーンも忘れられない。作られてから50年も経ったのにいつも新鮮でクール、ぜんぜん年を取らない映画。『勝手にしやがれ』という邦題も素敵だ。

ヌーベルヴァーグの代表的監督ジャン=リュック・ゴダールの長編デビュー作でもある。ヌーベルヴァーグ(新しい波の意味)とは、フランスで1951年に創刊された映画批評雑誌に集まった若い批評家たちが、映画監督は作家であると提唱して始まった映画運動。

ゴダールを始めとして、この欄でも紹介したクロード・シャブロルや、フランソワ・トリュフォーなど多くの映画作家がこの運動から生まれている。中でもゴダール監督は、最も過激な映画作家の一人だ。「情熱とは破壊的奔流である」と言ったのはポール・サルトルだったと思うが、この映画はまさにゴダールの映画への破壊的な愛がほとばしる作品だ。

DVD 写真クレジット:Fox Lorber
主人公は自動車泥棒のミシェル(ベルモンド)で、盗んだ車に偶然銃があったことから警官を殺してしまう。パリに戻ったミシェルは逃げる風でもなく、アメリカ人学生パトリシア(セバーグ)を口説いてばかり。金が入ったら一緒にイタリアに行こうぜと誘うが、彼女の反応は今イチ。そのうち警察が彼を見つけて、追いかけっこが始まる。

ミシェルはハンフリー・ボガードが好きで、彼の真似をして粋がっているチンピラ。女好きで無軌道、刹那的に生きる若者だ。反してソルボンヌに通うパトリシアはジャーナリストの卵で野心的。インタビューの仕事を回してくれた先輩の男とキスをして、ミシェルをクサらせる。

世界中のどこにでもいる若い男女のありふれた物語。だが、この映画はそれまで起承転結で描かれてきた正統派の映画作法をまったく無視し、ジャムセッションのように奔放に展開していく。導入部の警官殺しは見落としてしまいそうに呆気ないのに、パトリシアの狭いアパートで二人が喋るシーンが延々と続くアンバランス。物語は流れ、留まり、そして忙しく動き回る。

シナリオはトリュフォーが書き、ゴダールはそれを下地に台詞は俳優たちの即興にまかせた。撮影監督はこれが2本目というラウール・クタール。ハンドカメラを使ってパリの街中でゲリラ的に撮影がされた。今や全盛のモキュメンタリーのハシリ。自然光を使った撮影や同じ場面をブツブツと切るジャンプカットなどの新しい手法もこの作品から生まれた。

ゴダールは著書『映画史 [ I ]』の中で、当時は予算も少なく、スタジオも使えず、照明についても無知だったため「自分がしたいと思うことではなく、自分にできることをした」結果だったと回想している。限界があったからこそ新しいものが生まれた。そのビビッドなエネルギーがこの映画に永遠の命を与えたのだろう。

ゴダールはこの映画でジャン・ヴィゴ賞、ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞。その後、『女は女である』『気狂いピエロ』、『中国女』などを作って政治的に先鋭化し、67年についに商業映画との決別を宣言。68年のフランスの5月革命の際に、カンヌ映画祭トリュフォーらと乗り込んで各賞選出を中止させている。以来、政治的で難解な作品を多く作るようになって、物語性を重視したトリュフォーなどと袂を分っている。

小難しいことを言うゴダール監督だが、彼のハートは女に裏切られてばかりいる映画オタクの悲哀にあったのではないか。キレイな女は不可解で、まったく油断ならない。パトリシアに裏切られて、ヨロヨロと逃げるミシェルはそんなことを呟いていたかもしれない。最後に「お前はサイテー」と言った言葉も彼女には意味不明だ。なんという残酷、なんという無意味…。観客は唐突な幕切れで突き放され、現実に戻る。その奇妙な快感もまたこの映画の魅力、何度も魅了される理由なのだ。

上映時間:1時間30分。