小説『OUT』についてなど

やや古いニュースになるが、4月7日に作家の桐野夏生さんにインタビューをした。この春『OUT』に続いて『グロテスク』の英語版が出たので、その宣伝のために全米の各都市を訪れていたのだ。サンフランシスコに来るのを知ったのは、彼女が来る少し前のこと。正月に日本で購入した彼女の本が2月末に船便で届き、それらをすべて読了してクスリが切れたみたいになってK書店に走った時だ。


<愚かなる熱情>
入り口に桐野さんのサイン会のお知らせがあるではないか。宝くじに当たった気分。神様のお導きだ、絶対にインタビューを申し込もうと即座に思い、未読の『グロテスク』やら『魂萌え!』など著作4作、上下巻7冊の文庫を買って帰った。

即、古い名刺を探し、05年秋に私の本が出た時のK書店との苦い思い出(当店はすべて買い取り制なので、売れる可能性のない本は置けないと本の扱いを断られた)を掻き消しつつ、店長らしき男性にメールを出す。

翌日、「当店は桐野さんのパブリシティは担当していないので、ランダムハウスに直接問い合わせるように」という返事。ランダムハウスに直接って、どうすりゃいいの。だが、障害が大きくなると燃える体質が活性化する。しかも、今回は天使のお助けがあった。

毎週映画紹介を寄稿している日系紙『日米タイムス』の記者のTさんが、出版社とのコーディネイトをかって出てくれたのだ。ありがとう、Tさん!とメールを書いたのが、急きょ参加決定のグアテマラ・ツアーの前日、3月23日。

桐野さんの直木賞受賞作『柔らかな頬』の下巻を荷物に詰めて5泊6日の旅に出た。グアテマラからの帰国は27日、桐野さんのサイン会が7日なので、帰ってから取材の準備をするのに10日しかない。大丈夫かよ、土井!と焦りまくったが、旅行中は当然すべて忘れて遊んだ。この旅も面白かったので旅行記へと脱線したいのだが、グッと堪えよう。

帰ってみると取材OKのメール。有能なTさんのおかげで、一対一の取材で30分も時間を取ってもらった。ヤッリー!と小躍りしたのもつかのま、突然目の前が真っ白に。何を聞くんだ?30分も?

自分の浅慮軽薄にクラクラする。これまでも映画監督や原作者の取材をしたことはあるが、それなりにお仕事モードでやってこれた。だが、今回はゼーンゼン違うのだ。なぜなら、私は彼女にただただお会いしたい、どんな風に話すのか聞いてみたい、という完全なファンモード。平常心ゼロである。その自覚だけはあった。

恥ずかしながら白状すると、私は桐野さんのブログなども毎日覗き、彼女がアメリカの50ー60年代のポップなドレスが好きだということを知って、市内のオシャレな古着屋でドレスを買って彼女にプレゼントしようかとマジに思い、その衝動をかろうじて抑えたのである。ああー。ファンというのは、愚かなる熱情に囚われることナリ。

10代の頃ビートルズに憧れた時みたいな熱狂状態にいた訳だが、今回は、旅行中の桐野さんに時間を取って頂き、Tさんにも骨を折ってもらった以上、今さらお会いできて良かったーー、うっとりーー、という訳にはいかない。記事をまとめねばならない。ああー、サイン会に行くだけにしておけば良かったと後悔してもアトの祭りじゃ、土井! 

<小説『OUT』誕生の経緯>

実際にお会いした桐野さんは、近づき難い美女という写真の印象とは裏腹に、ざっくばらんに話す気さくな人だった。実力も自信もあるので当然だとは思うが、エエカッコしーが全然ないのだ。『グロテスク』の話を聞いた時は、かなりクールで取材モードの話ぶりだったが、話が彼女のブレイク作『OUT』になると俄然熱が入り、「今でもハラ立ってんですけど」なんてナマの声まで聞けてドキドキしてしまった。

その話をする前に『OUT』の簡単なあらすじを紹介しよう。(ネタバレありなので、知りたくない方は以下5段落はさけてください)

主人公は弁当工場で深夜に働く4人の女。夫と高校生の息子がいる主婦の雅子、一人で老母の介護をする生活ギリギリのヨシエ、暴力亭主と幼い子どもを抱えた弥生、夫に逃げられたことを隠し、ブランド品を買いあさって破産しかけている邦子の4人だ。

ある日、弥生が夫の暴力に耐えかね、夫を殺してしまう。死体の始末に困った弥生は胆のすわった雅子に助けを求めると、雅子はすぐに助けにやってくる。死体処理を金で引き受けた雅子は、金の欲しいヨシエを引き入れ、雅子の家の風呂場で死体を解体する。3人の企みに勘づいた邦子も仲間に入り、女たちはバラバラになった死体を遺棄する。

口の軽い邦子からコトの次第を聞きつけたチンピラに、金を出すから死体解体業をしないか、ともちかけられる。迷いつつも女たちはその仕事を請け負い始めるのだが、殺人の前科がある怖ーいヤクザ者にも知れることとなり、女たちはジリジリと追いつめられていく…。

映画ではここまでで終わり。だが、面白くなっていくのはこのあと。一人二人と脱落者を出していく女たちの中でただ一人雅子だけが残って、このヤクザと対決する。命知らずの男を相手に、知力と体力を尽くして向き合う内に、雅子は変貌する。

強靭な生命力と非情さがあらわになって、本来の自分自身を取り戻していくのだ。私はその変貌の過程を追いながら、この作家が雅子を通して、女の背中に大きな翼を付けたと思った。この翼があれば、どこへでも飛んでいける。

『OUT』は私が初めて読んだ桐野さんの小説で、いつもながら、まず映画を先に観ていた。面白かったので友人に薦めたら、「原作の方がずっと良い」と逆推薦を受けて原作を読み、心底ぶっ飛んだ作品だ。

バブル崩壊後の不景気の中で、滑るように社会構造の下層に落とされ、なおかつ崩壊した家庭に閉じ込められた女たちの日々のあがきをビビッドに描きながら、女の冷徹さと底なしの力を見せつけた傑作小説だ。パート主婦のハードボイルド。なんて凄い着想だろう。

桐野さんはこの小説を、全ての仕事を断り、2年近くをかけて書き下ろした。93年の『顔に降りかかる雨』(新宿の V・I・ウォーショースキー 、女探偵村野ミロの誕生!)で第39回江戸川乱歩賞受賞後、ヒット作がなく、「推理小説を書くのが嫌いなんじゃないか」と思っていた頃だ。

「書き始めたはいいんですけど、もの凄く怖かった。あんなにチヤホヤされたのに誰からも電話はかかってこないし、服部真澄さん(96年の『龍の契り』で吉川英治文学新人賞受賞)みたいな若い人が華々しくデビューして、自分は忘れ去られているんじゃないかと思って。年で体力もないし、娘の弁当を作りながら書いていたんで、悲しくて」と驚くほど正直に当時の気持ちを語ってくれる。

96年末に書き終えた時は「号泣しました」という。長期の睡眠不足で5キロの体重減量。ボクサーみたいだ。ところが講談社は、初版1万3千と言ってきた。最低でも2万は出して貰えると思っていた彼女は愕然。銀行預金も底をついていたので、もしこれが売れなければ作家廃業だと覚悟をする。

その『OUT』が、あっと言う間に30万部を突破した。ところが「試練は終わらずに、直木賞にも吉川英治文学新人賞にも落ちて、やっと日本推理作家協会賞を貰って…。それにしても直木賞の選評がひどかった」ので今でもハラを立てている、と言うのだ。

<オヤジが怒った『OUT』>

選考委員の井上ひさしは「反社会的だ」と言い、黒岩重吾(故人)は「天国と地獄などと少女趣味なことを書いている」と言って『OUT』を直木賞から落とし、半村良(故人)は「読者に媚びている」って言って吉川英治賞新人賞から『OUT』を外した、という。これらの発言に私も仰天した。

そもそも文学、さらに拡大して芸術というのものは「反社会的」な側面を持つものではないのか。社会のネガである反社会的な主人公を描くことで、社会の闇を照射するというのは文学の一つの方法論ではなかったか。それを批難の道具として使うというは、どういうつもりなのだろう。「少女趣味」と「媚びている」という発言も、的を得た講評とは思えない。

「男の人たちはものスッゴク怒ったんですよ『OUT』って小説に」と語気を強める桐野さん。「妻が夫を殺す話ってすっごくイヤみたい。怒りが伝わってきましたもの。ラジオに出た時に、男のアナウンサーが私を避けるんですよ。怒っている感じで、全然口きかないし。それで彼が大マジメに『あなた、人殺しを良いと思っているんですか?』と聞いてくるんですよ。『思っていません』って答えましたけど」。ミステリー作家に人殺しの是非を聞くのって、肉屋に動物愛護について聞くのと同じぐらいおかしな話だ。

文学賞選考委員の男たちの発言も異口同音。文学賞の権威を借りて、彼女が絞り出した声を封じ込めようという悪意すら感じられる。『OUT』が売れに売れたこと(最終的には80万部を越えた)も気に入らなかったのかもしれない。

最後に「若い人たちは面白いって言ってくれましたけど、ともかくオヤジたちはみんなモノすっごく怒ってました」と締めくくった桐野さん。この発言はつまり「直木賞選考委員もただのオヤジ」ってことを言っていたわけで、今頃になって彼女の率直さにニタリとしてしまう。

<女たちは何を切り落としたのか>
それにしても、男性文士たちの過剰反応は驚きだ。ミステリーに殺人はつきもの。自分たちだって小説の中で女を凄惨なやり方で殺してきていると思うのだが。女の作家が男を殺してバラバラにするという話に、なぜこんな怒りを持つのだろう。女が男に復讐していると勘違いをしているのだろうか? 

この過剰反応は、ヘテロセクシャルの男が、ホモセクシャルの男を毛嫌いするのに似ている気がする。つまり、いつもヤル側にいる自分が、ヤラレル側になるかもしれない、と思うだけでオソロシイっていう妄想だ。だとすれば、これもおかしな話。『OUT』は、女と男のどっちがヤラレルかという話ではない。

女が男を切り刻むことで溜飲を下げて…、なんて時代はとうに終わっている。女の窒息状況は、一個人の男に対する怒りのレベルなんかをはるかに越えてしまっている。その現実が見えないのだろうか。

死体解体はアレゴリー、隠喩だ。彼女たちが切り落としているのは、社会の壁、生活の足かせだ。女を深夜の弁当工場に縛り付ける金と生活のケチ臭い足かせ。会社も夫も息子もあてにならない社会。息苦しくバカらしい日常の枠から、大きく踏み外す何かが欲しかった女たち。だからこその死体解体だ。彼女たちは、絶対元に戻れないことをすることで、日常を越えようとしたのだ。ギーリギーリ、ゴーリゴーリ。

多く捨てた分だけ、遠くに行ける。ギーリギーリ、ゴーリゴーリ。金にこだわった女は途中で脱落し、完全無欠な自由と力が欲しかった雅子は、会社も夫も息子も捨てた。そして、大きな翼を生やし、遠くへと旅発って行ったのだ。

思い出したが、この半年ぐらいに日本で妻が夫を殺してバラバラにするという事件が2件あったと思う。桐野さんが『OUT』を書いたのが約10年前。あの当時彼女がアレゴリーとして書いたことが、実際に起きてしまうという加速する日本の窒息状況を思い、暗澹とした。夫を殺した妻たちの実際は、足かせを切り落とすどころか、文字通りの牢獄暮らし。殺された夫たちも哀れだが、この世ではどこへも行けなかった女たちに無残な思いが広がる。

こういう事件が実際に起きたからと言って、作家に先見性があったと評価するのもおかしな話だ。作家は予言者ではない。が、作家がある地点から問題を掘り下げていくことで、時代に共通する集合意識の深海に行き当たることはある。『OUT』はそんな深いところから書かれた小説であり、だからこそ不吉な先見性も持ってしまったのだ。

あれだけダークな小説が大ヒットした背景には、ミステリーマニアに受けたという以上に、マニアを越えた読者層の広がりがあったのではないか。私もその一人だ。読者に男性が多くいたことも想像に難くない。「反社会的」だと退けたところで、私たちは『OUT』で描かれた集合意識で繋がっているのだ。雅子の中に自分を見た人は私だけではないと思う。


最後に…

強い電磁波に打たれみたいに「やる気」を貰った取材だった。私の背中に生えた中ぐらいの翼が、今でもバタバタいっている。